「キリストは命のパンである」 ヨハネの福音書6:22~59 2026年8月2日
みなさん、こんにちは。今日の礼拝で宣教させていただくことを神さまに感謝します。先日、私が宣教した時、お話ししたのは、キリストが五千人にパンと魚を配られるという聖書の話でした。その時、学んだことは、私たちがクリスチャンとして人々に命のパンを配るということは大事なことですが、また私たち自身の喜びでもあるということでした。キリストはサマリア人の女の人に、水を飲んでも、すぐに喉が渇くと言われましたが、私たちもパンを食べると、一時的には満腹になりますが、時間が経つと、すぐに空腹になってしまいます。ですから、いつまでも渇くことのない生きた水といつまでも飢えることのない命のパンであるキリストを分かち合いたいと願っています。神さまの導きによって、この東京で新しくキリストを信じる人たちが増えていくために、命のパンであるキリストを証ししていきたいと願っています。今回の宣教は少し長くなりますが、とても大事な内容ですので、どうぞこの宣教をお聞きください。お祈りします。
ヨハネによる福音書6:22~25をお読みします。
6:22 その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。
6:23 ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。
6:24 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。
6:25 そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。
ここには五千人に食べ物を与えた奇跡の後の話が書かれていました。パンと魚を食べた人たちはイエスさまがメシアであることを認めただけでなく、自分たちのためにいつでもパンを与え続けてくれる王さまになってくれることを願いました(14、15節参照)。ところが、イエスさまは彼らの思いを知られ、その場を去り、ティべリアス湖(ガリラヤ湖)からカファルナウムに行かれました。パンを食べた人たちはイエスさまを探していましたが、イエスさまを見つけると、イエスさまは次のように語られました。
6:26 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。
6:27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
イエスさまは人々の心を知っておられました。彼らは、イエスさまが示された永遠の命に至る食べ物を求めることはしないで、朽ちる食べ物を求めたのです。私たちが人々に福音を宣べ伝える時も、朽ちる食べ物ではなく、永遠の命に至る食べ物であるキリストを宣べ伝えることに励むのです。
このことと同じ内容の話をイエスさまは山上の説教の中で語られました(マタイ6:19~21)。
6:19 「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。
6:20 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。
6:21 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
イエスさまは人々の心を知っておられました。彼らは、地上で宝を積むように、彼らの心は朽ちる食べ物を求めているのです。その人々と同じように、今の時代の人々も、朽ちる食べ物を求めています。
今日の聖書に戻ります(ヨハネ6:28、29)。
6:28 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、
6:29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
「神がお遣わしになった者を信じること」、これが福音です。ヨハネによる福音書3:16にはこのように書いてあります「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。神を信じることだけが永遠の命を得ることなのです。けれども、群衆は何と言ったでしょうか(ヨハネ6:30、31)。
6:30 そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。
6:31 わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」
イエスさまが本当にメシアであるか、確かめるために群衆はこの詩編のみ言葉を引用しました。ファリサイ派のように、どんなしるしを行ってくださいますか、とイエスさまを試そうとしたのです。彼らは、イエスさまがメシアであることを示すしるしとして、パンの奇跡を見ました。ところが、しるしを見たからといって、彼らはイエスさまがメシアであること、神であることは信じませんでした。ファリサイ派の人たちは何回もしるしを見ましたが、イエスさまを神の御子として信じることはありませんでした。イエスさまは彼らが神を探し求めてはいないことをご存知でした(ヨハネ6:32~33)。
6:32 すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。
6:33 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
キリストがお答えになったこと、それは、モーセの証しは実は神の証しであるということでした。彼らはモーセの証しを尊重しているつもりでしたが、分かっていなかったのです。モーセは神から遣わされた人でした。モーセがその時代のイスラエル人たちをエジプトからカナンの地まで導いた途中で、神がその人たちに天からのパンをお与えになったことは知っていました。ところが群衆は天からの証しのパンを食べたかったので、キリストにこのように願いました。
6:34 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、
6:35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。
6:36 しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。
6:37 父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。
6:38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。
6:39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。
6:40 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
これこそは福音のメッセージです。イエス・キリストこそが命のパンであり、誰でもそのパンを食べると永遠の命をいただくことができるのです。アンパンマンは日本でとても有名ですが、あまり知られていないのは、アンパンマンの作者はキリストを信じていたということです。彼はキリストに影響されていたそうです。アンパンマンは自分の友を助けるために自分の顔を取って、問題にあって苦しんでいる友に与えるのです。友はそれを食べて回復するのです。イエスさまはまるでアンパンマンのような方です。なぜなら、ヨハネによる福音書15:13にはこう書いてあります。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」
続いて、41節以下をお読みします。
6:41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、
6:42 こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」
6:43 イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。
6:44 わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。
6:45 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。
6:46 父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。
6:47 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。
6:48 わたしは命のパンである。
6:49 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。
6:50 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。
6:51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
イエスさまは群衆の心をよくご存知でした。群衆はイエスさまを来たるべき救い主として信じようと思っていましたが、自分たちの求めていることとは違っていたので、イエスさまを受け入れませんでした。そして、彼らはファリサイ派の人たちのようにイエスさまに対して批判するようになりました。彼らは、そこにおられる方が待ち望んでいたメシアであることが分からなかったのです。しかし、イエスさまは彼らにご自分が命のパンであることを語り続けました。
終わりにこの最後の聖書箇所を読んで、まとめたいと思います。
6:52 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。
6:53 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。
6:55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。
6:57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。
6:58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
6:59 これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。
今日は礼拝の後に主の晩餐式を行いますが、イエスさまが教えられたのは、ご自分の肉を食べ、血を飲むということではありません。イエスさまは、十字架におかかりになる直前に、ご自分の弟子たちと最後の晩餐を行われました。そこでイエスさまは、パンと杯を通して、ご自分が私たち人間の罪のために十字架におかかりになることを示されたのでした。私たちは、そのことを心におぼえて、命のパンであるイエスさまを迷っている人たちに伝え続けなければならないのです。イエスさまを受け入れるなら、その人たちは決して霊的に飢えることはなく、霊的に渇くこともないのです。命のパンであるイエス・キリストを伝え続けましょう。お祈りします。
スティーブン・クンケル宣教師
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